一六〇三時



「…、」

 不二は不思議に思った。

 幻覚。
 いちばん最初に思ったのはそれだった。
 幻覚だ。
 幻覚でもいいかもしれない。
 それで、もう気が狂ってしまっているなら、その幻に身をゆだねたい。

 そう考えてしまった頭に、ふと、不二は自分が相当参っていることに改めて気付くのだ。

 雨が滴って視界を悪くするのを気にせずに、不二はじっとそれを凝視していた。
 雨粒が伝って目に入った。
 それでも、瞬きをするのが惜しくて仕方がない。

「…、」

 別の家屋に身を潜める気にもなれず、適当に歩き回っていた不二。
 立ち止まれば、越前の感触を思い出してしまうようなきがしたから。
 跡部が消えそうな気がしたから。
 だから。

 けれど、歩き回って出くわしたのは跡部の幻。
 自分は疲れすぎたのかもしれない。
 もっと、強い人間だと信じていたのに、それでもまだ強い自分を信じてやまなくて、だから、そう。

 目の前の幻は。
 木々の間から見えた影は。

 たしかに跡部で。



「…跡部…ッ!」


 幻覚でも何でもいいから、とにかく叫んで走った。
 別にもう、本物じゃなくてもいい。
 何でもいい。
 
 幻だって、何だって。






「………不二?」

 怪訝そうに振り返った跡部は、それが不二だと認識する前に、飛び込んできた体を抱きとめる。
 確かに不二が腕の中に居て、その腕で必死に跡部のシャツを握りしめていた。
 雨で濡れたシャツ。

 幻じゃない。
 幻覚じゃない。

 だって、体が覚えてる。

 これは、本物だと。


「会いたかっ、」

 溢れた涙で言葉が続かなかった不二。

「…、」
 跡部は、一瞬めまいのような錯覚を覚えて、それから確かに、不二の体を抱きしめた。
 抱きしめたというよりは、掻き抱くみたいなその仕草。
「…っ」
 生きててよかったと、この惨劇の中で唯一思えた瞬間だった。

 雨に濡れた腕の中の確かな温もりだけが、ただ絶対的で、現実的で、哀し過ぎて涙が出た。

「不二…、とりあえず隠れるぞ。誰か来ると不味い」

「…」

 不二はそっと跡部から離れると、そのシャツの裾を掴んだまま、頷いて一軒の家屋を指差した。

「あそこなら、誰も居ない」
 呟くようなその言葉。
「…分かった」
 その、信じる理由も何もない言葉を、跡部はどう確認するわけでもなく頷いた。
 不二のシャツを掴んでくる手を離させると、その手を握る。

 ずっと求めていた温もりは、もう雨に打たれて冷え切っていた。
 それでも確かにずっと欲しくて欲しくてたまらなくて気が狂いそうだったものに間違いはない。



 不二の手を引いて、跡部は静かに、その家屋へと入って行った。





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