一五三五時
 



「…?」

 英二は、不意に物音を聞いたような気がして顔を上げた。
 けれどそれは気のせいだったのか、バリケードにはなにも異常はない。

(…気のせいか)

 それから不意に、自分がぼんやりしていたことに気がつく。

(駄目駄目、忍足と約束したんだから)

 軽く自分の頬を叩いて、英二は隣で寝息を立てている忍足を見た。
 何だかくすぐったくて自然に笑みが漏れる。
 あれほど大丈夫だと言い張った忍足も、かなり体力的にも精神的にもきていたんだろう、しばらくはたぬき寝入りをしていたけれど、そのうちに本当に眠ってしまった。
 黒い髪の毛が英二の肩をぱらりと落ちる。微かな寝息。安息。
 
 窓の外を見ると、いつの間にか霧雨だった雨は確かな雨粒となって地面を叩いている。耳を澄ますと雨音が確かに聞こえていた。
「…」
 英二は忍足を起こさないようにそっと立ち上がると、大きく伸びをして首を回した。
 ずっと座りっぱなしだったせいで肩が凝ったような気がしたから。
(…ちょっとだけならいっか。)
 誰かが来る様子もないし。
 英二は内心そう思って、病院内の散策に出かけた。






 診療室は絶対に覗かないように、そのまま素通りする。
 あそこには、阿久津がいるから。

「…、っと」

 朽ち果てた病院内は木切れや何やらが雑然と転がっていて、英二はそれを踏まないようにぴょん、と跳ねて飛び越した。

 大丈夫。

 忍足を一人にはさせないし、死ぬときは一緒だと心に誓った。
 別に、もう恐怖はない。
 忍足がいることの方が重要だった。
 英二にとって。

―カタン。

「…?」

 どこかで音がしたような気がして、英二は不意に立ち止まった。
 首をかしげてみるけれど、人がいるような気配もない。でも、さっき聞いた音はやっぱり何かの物音だったんだろうか。
 英二は疑問に思いながらも、そろそろ忍足のところに戻ろうかと、そう思った。

 そのとき。

―ガタン!

 突然天井の朽ち果てた穴から、人間が飛び降りてきた。見上げるとそこには老朽化してボロボロになって穴の開いた天井板。
 飛び降りてきたのは…切原。

「…ッ!」

 ひゅん、と空気が鳴いて、英二は咄嗟に身をかわした。危険を察知したわけでもない、本能的に。知ったときにはもう体が動いていた。試合の最中とすこし似ている。奇妙な懐かしさを覚える間もなく、英二は身をひるがえす。
「…忍足っ!」
 彼を起こすために叫ぶ。
 と、空気を唸らせた正体を英二は捕らえて、一瞬凍りつきそうになる足を無理やり動かして駆け出した。

 銀色のナイフが空を切る。

「どこ行くんだよ?」

 可笑しそうに笑った切原の、腹部は血でぐっしょりと濡れていた。深い傷なのかどうなのか、けれど彼は立って平気でナイフを振り回している。
 駆け出した英二の後ろを、気持ち重い足取りで追いかけてきた。

 と。

 ひゅん。

 と耳元で空気が騒いだ音が聞こえた。
 かと、英二は思った。

「……?」

 わけが分からないまま、床に膝を突く。どさりと倒れこむ。倒れた拍子に顔を打ったけれど、その痛みもよくわからない。と思ったのは、多分、背中が死ぬほど痛かったから。

 切原は、ナイフを投げたんだろう。背中目がけて。

「…や…、ぅ」

 小さく呻くと、霞んだ視界の端に忍足が駆けてくるのが見えた。けれど背後にいた切原は、まるで忍足なんて見えてないみたいに。
「…ッ、――!」
 倒れこんでいる英二の背中にもう一度ナイフを思い切り付きたてた。ザク、と肉を確かに裂いた音は、刺された英二の耳にもきちんと届く。いや、内側から聞こえたその音は、確かに自分を裂いた音。
「…、」
 痛すぎて声が出ない、というよりは、意識さえも遠のいて行って。痛いのか何なのか、分けが分からなくなった。


 ドサリと、後ろで何かが倒れた音がした。





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