■五月五日 三日目


〇三四〇時



 靄の立つころだった。
 ただ、雨が降るのか空はどんよりと淀んでいて、風が少し、冷たかった。




「…?」
 不意に千石が顔を上げた…と、手塚が認識した瞬間の、ただそれだけの間のこと。

「…ッ、!」
 何かを気にして顔を上げた千石は、次の瞬間にはもう地面に倒されていた。横手から獣のように飛び出してきたのは、他でもない、切原赤也。夜の月明かりだけでは、敵の接近に気付くことができなかった。
 ライフル銃は弾切れなのか何なのか、使用されずに切原の背中に背負われていた。その右手には、なぜか銀色に光るフォーク。微かな月明かりに、けれどそれは見えた。

「…、手塚!」

 千石は跳ねるように飛び起きて、咄嗟に亜久津が別れ際に渡してくれたサバイバル用のナイフを構えて切原の前に立った。
 切原のそれと同じように、月明かりが反射して銀色に光る。
 手塚は一瞬眩暈のような何かを感じて、けれどその場に踏みとどまった。

「…手塚、行くんだ」
 千石は振り返らないで言う。
 夜の冷たい風が微かに吹いて、千石のその茶色い髪の毛を揺らしていた。

「…嫌…だ」

 声がかすれたのは、死の恐怖か千石と離れることの恐怖か、それとも違う何かか。
「手塚、行かないと怒るよ」
 決して振り返らない千石の怒気を含んだ声は、けれど手塚を動かす動力にはならなかった。行けば確実に、二度と会えないような気がしたのは、多分、切原の放っていた異様な殺気のせいだったのかもしれない。
 切原の楽しげな笑みが、不意に邪気を含んだ。

「安心してくださいって、オレが殺したいのは手塚さんですから」
 ケラケラと楽しげに切原は笑うと、ナイフを構えた千石なんて視界に入っていないかのように、咄嗟に駆け出した。手塚目がけて。

「…、手塚、っ」

 千石が叫ぶのと同時くらいに、手塚は地面を蹴って駆け出していた。切原が追ってくる足音が確かに後ろから聞こえていた。小枝の折れる音、森を踏みしめる音。
「…ッ」
 涙が出そうになった。
 今、この瞬間に。
 死ぬという事実よりも、千石と離れるほうが怖いと思った自分に手塚は疑問を抱く。けれどその疑問に結論を出す前に、切原が手塚に飛び掛った。
 倒れて、視界が転倒する。
 木の葉の中に突っ伏して、咄嗟に体をあお向けると、ちょうど切原がフォークを手塚の喉につきたてようとして振りかぶったところで、だから手塚は咄嗟に切原の着ていたシャツを掴んで横に振り落とした。
 彼がどうなったかも見ないまま飛び起きると、千石がすぐそこにいた。
 咄嗟に彼の方へ逃げると、反対に千石は体勢を立て直そうとした切原へと突っ込んでいって、防御をとった切原を気にすることなくナイフを突き立てる。
 刺さったのは…右足、膝上。
 ナイフを引き抜いて千石は飛びのく。
 と。
「っ、…あーもう…せっかくハンデ上げたのに、」
 はは、と笑って切原は、立ち上がるときに少しだけ顔をしかめただけで、それ以外、刺されたことに対してこれといった感情がないように見えた。

 ただ。

「…面倒だから、とりあえず千石さんは死んでよ」

 笑いながら背中に背負っていたライフルをおろすと、千石が身構える間もなく照準を合わせる事もなく無造作にライフルを発射した。
 パン!と乾いた音。
 ドサ、と、重い何かが倒れる音。
 連なるように聴こえてきた音。
「…、っ」
 千石が倒れる。
 雲がかかって遮られていた月の光が、雲の間から差し込んで、ちょうど、千石の周りに滲んだ水のような液体に反射した。
 キラリ、と。

「…せ、んごく…?」

 呆然と、手塚が見つめる間にも、千石からは黒いような液体が流れ出てきていて。それが明るいところで見るときっと鮮やかに赤いこと、それが血であろうことを手塚は嫌でも理解してしまった。
 動かない千石。
 動けない手塚。

 けれど、切原がライフルを背負い直して、フォークを握るのは、ほんの一瞬の時間だった。


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