一二三〇時


 森の周りに仕掛けられたトラップは、誰かが破壊した後だった。

 跡部は静まりかえった木造の病院の中へと足を踏み入れる。病院内のトラップも破壊されていた。張巡らされたピアノ線が、垂れて床に着いている。もう役に立たなくなったピアノ線を越えて跡部は右手に拳銃を構えたまま壁伝いに院内を進んだ。

 人の気配が全くしない。
 もしかしたら、もう誰もいないんだろうか。
 そう思って奥の部屋、きっと診察室だろう、そこへと続くドアを開けた瞬間。
「…!」
 跡部は一瞬手にしていた拳銃を構えようとして、止めた。
 診察台に腰掛けて、タバコを傍らに置いた阿久津は、もう既に事切れていた。額から血を流して、身体は蜂の巣みたいに銃創で穴だらけだった。もう血も流れなくなっているところを見ると、死んで大分経っているんだろう。
 跡部はふと、朝の放送の人数と、さっき自分が殺した宍戸も勘定に入れて人数を数えてみた。
 指を折る。人が、死んだ分だけ。

 ものすごい速さで皆死んでいく。
 誰かが殺していく。
 自分も殺した。

 気がつけば、自分の手に血がこびり付いて取れなくなっていた。刻印みたいにこびり付いて。今頃になって手についたままの血が、さっきまでまったく気にならなかった血が、擦っても取れないことに気付いて跡部は着ていたシャツに手の平を何度も何度もこすり付ける。

「…、っ」


(…不二…)

 不二に会えない。
 どこに行ってしまったんだろう。

 不二も誰かを殺したんだろうか。
 誰かに、殺されそうになっているんだろうか。
 
 どうしてこんなに不安になるんだろう。

 どうしてか、置いてきぼりにあった子犬みたいな心境になって、跡部は自嘲の笑いを漏らした。
 鼻の奥が痛い。

 情けないことに泣きそうだった。

(ワケわかんねぇよ)

 返り血で汚くなった髪を掻きあげる。
 割れた窓ガラスからは、日の光りが穏やかに差し込んでいた。鳥のさえずりも聞こえる。でも、不二の声は聞こえない。姿が見えない。何か悪い冗談じゃないだろうか、もしかしたらどこかに隠れて自分のことを見ているんじゃないかなんて、そんなありえないことまで考える。
 本気で泣きそうだった。目頭が熱くて、でも堪えているから喉が痛い。
 力が抜けたみたいに、その場に座り込んで、薬品棚に背を預けて目を閉じた。眠っていないせいで気分が落ち込んでいるんだろうか。

 ここなら少し眠れるかもしれないと、跡部はため息にも似た呼吸を吐き出した。





「あ、始まったよ」
 無邪気に笑って漆黒の空を指差した不二。河川敷の花火大会。友達とさえも来たことがなかったのに、跡部はなぜか不二と二人で花火を見に来てしまった。
 昔、母親は浮気をして、仕事に没頭していた父親と自分とを残して家を出て行ってしまった。幼いながらに、自分はいらないんだなと思ったことを今でも憶えている。父親がいたから寂しくはなかったけれど、そればっかりではどうしようもない失望があった。
 自分も連れて行ってくれと、せがんだあの日。彼女は自分の息子の手を振り払った。
 どんな気持ちで振り払ったのか跡部には見当も付かなかったけれど、今でもそれは心の深い部分で残ってしまっている。
 恐怖となって。
 母親と一緒に出かけた古い記憶で唯一残っているのが、この花火大会で。

「…どうしたの…?」
 
 ふと我に帰ると、不二は怪訝そうに自分を見上げていた。
「いや…別に。何でも」
 跡部は苦笑して不二の頭を軽く叩いた。
「…、ホントに何でもない?」
 しつこく不二は聞いてくる。
「ああ。」
 短く返事を返した。
 人でごった返している河川敷。空には大輪の花がひっきりなしに浮かんでは消えていく。火薬の爆ぜる音。子供の歓声。夏の、独特の、甘い空気。
「…、」
 不意に、不二が跡部の手を取った。
 マズイとは思ったけれど、本能的に跡部は身体を固くする。止めてくれ、頼むから。手を振り払われるのを、無意識が思い出す。と、不二は跡部の異変に気付いたらしく、心配そうに顔を覗きこんできた。
「大丈夫?…気分悪い?」
「…いや」
 大丈夫。
 言おうとした跡部に、不二は手を引いて人込みの中を移動し始めてしまう。
「…おい?」
 ぐいぐい引っ張られて、跡部はされるまま引きずられていてしまう。と。着いたところは、河川敷の公園だった。土手の下にあるせいか、今は人がいない。みんな花火を見るために橋の上やら何やらに群がっているからだ。
「…」
 ベンチに座った不二は、けれど跡部の手を離さない。仕方なしに、跡部はそのまま不二の隣に腰を下ろした。
「…何」
「誰もいないから大丈夫だよ」
 言って不二は穏やかに笑う。
 跡部の方を向くでもなく、なんてことない、と言いたげに空に咲く花火を見上げていた。
 その横顔を跡部は盗み見る。

 一応橋の影にはなるけれど、ここからでも花火は見えた。
 虫の声が、草むらから聞こえてきて、涼しげに風が通り抜ける。

「…何言ってンのお前」
「だって」
 言っていいのか迷うみたいな不二は、ぽんぽん、とさっき跡部がしたみたいにその頭を撫でた。
「君泣きそうだったんだもん」
「…、」
 言われて跡部は顔をしかめる。
「…誰が泣くかよ」
 平然と言ったけれど、多分不二には強がりとかそんな感じにしか取られてはいないんだろう。
 不二はため息を吐いて跡部の手を握る自分の手に、きゅっと力を込めた。
「大丈夫大丈夫。」
 ね?と笑った不二は跡部にしてみれば不可解で理解できなくて何を言っているのかさっぱりだったのに。

 何でだろう、もう全部が全部どうでもよくなっていた。


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