二一〇五時
 

 跡部景吾はキレかけていた。月明かりだけが妙に明るい、静かな森の中で。

 今のところ誰とも会ってはいない。いない、けれど、会ったらどうしようもない、この状況じゃあ。
 死にに行くようなものだ。
 まだ死ねないのに。

(クソ野朗クソ野朗クソ野朗…ッ)

 武器がない。

 まったくの、丸腰。
 
 いくら番号順に渡されたデイパックを罵ったところで、武器はない。
 デイパックを開けたら、入っていたのはただの輪ゴムだった。しかも箱型の、大量に入っている徳用パックのでかいヤツだ。よくホームセンターなんかで見かけるもの。

(何がお徳用パックだっつーの!殺るか殺られるかってときにお得もなんもねぇっつんだよ、っ)

 そんなもの目にした日にはもう、ゲームに乗る乗らない殺す殺さないの問題の前に死にそうになる。輪ゴムを見て死にそうな気分になろうとは、よもや跡部も人生で体験できるとは思っていなかったわけで。
 実際そんな生きるか死ぬかの際にきて、笑いを取る結果になった自分がなにやらもの悲しい。
「…、」
 なんて、冗談言ってる場合じゃなかった。

 さっき海堂薫の死体を見つけた。血だまりの中に倒れていた死体。
 ということはもう誰かが殺しを始めているということ。まだ温かかったし、ゲームが始まってそれほど経っていないから、死んですぐだったんだろう。
 このゲームが冗談で済むもんじゃないということは跡部自身良くわかっていた。知っていた。跡部自身経験者ではない。ないけれど、知人の兄がプログラムに抜擢されて、結局帰ってこなかったように、このゲームから逃れることが出来ないという事実は事が始まった時点からじわじわとその影を心に落とす。
 海堂のデイパックからは武器が消えていたから、殺した誰かが持ち去ったのだろう。
 跡部も、今早急に武器を得る必要があった。
 丸腰で殺せるほど、このメンバーは軟じゃない。
 死ぬわけにはいかない。
 ここで死ぬわけにはいかない。
 まだ死ねない。

 不二に会うまでは。


 デイパックを担ぎ直して、跡部は行き先を決めた。
 根拠も何もない、ただの勘。
 とりあえず民家に近寄らずに海岸沿いに移動しようと思った。開けた場所だから、みんな近寄りたがらないだろうし、出くわしても接近戦で戦えるはずだ。月明かりだけだ、人目にもつかないだろう。
 そこまで考えた時だった。

「…、」

 不意に跡部は足を止めて耳を澄ました。

 誰かいる。

 風のざわめき以外に、森の葉が動いた音がした。ほんの一瞬だけれど確かに彼の耳はそれを拾い上げていた。
 不味い。咄嗟に思った。
 今戦うと本当に丸腰で戦う羽目になってしまう。それだけは避けたいと、跡部は自分の私物を思い返す。
 何か使えるものを、と。
「…」
 不意に思い当たって、デイパックから一本のボールペンを取り出した。それを、シャツの袖にしのばせる。
 と、確実に足音はすぐ側まで来ていた。
 ほんの二、三メートル。
 すぐ傍でカサリと葉が鳴って、跡部は身構える。

「…跡部さん…?」

 それは鳳だった。
「…何だ、鳳かよ。吃驚させんな」
 跡部は嘆息して緊張していた筋肉から力を抜く。それを見た鳳も安心したのか、そのまま跡部の方へと寄ってきた。同じ学校の人間だと、俄然警戒心も薄れてしまう。
 彼はバスに乗り込んだときに着ていたナイロン地のトレーニングウェアのままだった。黒のラインの入ったウェア。
 部活の最中にも着ているところを幾度となく見ているので、妙に見慣れていてそれが余計に現実的だ。

「誰かに会いましたか」
 いつも通りの人の良さと人懐っこさは今も健在。けれどその表情には普段は見せない戸惑いと絶望が浮かんでいた。
 ただ、希望を捨てていない。
 そう感じさせるその双眸を跡部は見返した。夜の暗がりでも彼の瞳はきらりと湿り気を帯びて光る。
「いや、全然。」
 あえて出会った死体はカウントには入れないで、鳳にそう告げた。

 そもそも、今回は一クラス分もいないから人口密度が低い。出くわす確立も低いんだろう。
 ふと、跡部は鳳に向き直った。
「なあ、不二見なかったか?」
 まだ死んでいないはずだ。不二が、簡単に死ぬはずない。そう思った跡部の問は、けれど鳳が首を横に振ることで、また微かな不安になった。
 生きている、そうやって自分に言い聞かせてみるけれど、やっぱり不安は拭えなかった。
 生きていてほしいという希望だと言っても違いはなかったかもしれない。
「…そうか。」
 嘆息した跡部に鳳は少しだけ申し訳なさそうな顔をしてみせる。
 たまに部活で見せる顔だった。見慣れた、彼の表情。
「会ったら、伝えます。跡部さんが探してたって」
「…ああ、頼む」
 苦笑して、鳳の肩に手を置く。
 と。
 不意に肩に置いた手で鳳を引っつかんで、空いていたほうの手で、あのボールペンを持っている方の手で思い切り鳳の喉を殴った。
 ボールペンは跡部の手の平で垂直に持たれたまま。

 ひゅ…っ

 空気がありえない場所から漏れた。
 鳳の喉から、喉のちょうど真ん中から空気が漏れる。ひゅ、と。

「…悪ィな」
 偽善にしろ気休めにしろ自己満足にしろ謝った跡部に、けれど鳳は訳がわからないのか、どこか呆然としている。その喉には、喉と垂直に事務用のボールペンが突き立って貫通していた。跡部は躊躇いもなしにそのペンを引っこ抜く。
 と、またひゅ、っと鳳の喉から空気が漏れた。

 空気が吸えないのだろう、鳳は苦しそうに顔をゆがめていた。

 跡部は念のためにもう一度拳にボールペンを握って鳳の喉を刺す。
 ザク。と確かな手ごたえ。今度は動脈を突いたらしく、引っこ抜くと同時に大量の血液が溢れた。溢れたどころか血が飛び散って、跡部はその返り血を浴びてしまう。着替えねぇのにな。なんて内心ぼやいた跡部。
 月と星しか明かりはない。
 それに照らされた血は、真っ黒いばかりでどう見ても赤くは見えなかった。
 何となく、書道の時間に見た墨汁を思い出す。

 予想以上に手ごたえがありすぎて、手の平がじんじんと痛む。
 顔を顰めてシャツに手の平をこすり付けながら跡部は、ふと彼に視線を戻す。


 もう、鳳はとっくに動かなくなっていた。

「…。」

 遭遇してからほんの数分のことだった。


 鳳は死んだ。

 
(…『死んだ』、じゃねぇな。『殺した』…か)

 喉から、ため息とも自嘲ともつかない吐息が漏れた。
 その希望を捨てていない双眸は、今は光を捨てて空を仰いでいる。

 それにつられるように跡部も空を仰いだのだけれど、そこには森の木々に切り取られた空と月が浮かぶだけで。



 希望は見当たらなかった。


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