『寝息』
「…跡部ーこの問題ってさー、この公式を、」
言いかけた不二が口をつぐんだのは、跡部が答えてくれる前に疑問が解決したわけでも何でもなく、ローテーブルの向かい側に座っている跡部が、頬杖をついたままうたた寝をしていたからだ。
彼がそういう風に無防備に眠ってしまうのはそこそこ、皆既日食並みに物珍しかった不二は、起こしてしまうような失態は犯さずに、そのまま握っていたシャープペンをテーブルに置くと、かけていたレコードの音量を少しだけ落とした。
無音では起きてしまう、けれども、煩すぎても起きてしまう。
かけている曲は、自分たちが生まれる前の古い映画音楽だ。まだスクリーンに映る俳優が、モノクロだった時代。祖父にもらったレコードは不二のお気に入りだったのに、いつの間にか跡部のお気に入りにもなっていた。
古めかしい飴色の匂いのする、そういう種類の時間が止まってしまいそうな音楽だった。
なら、なおさら、今の状況にはあつらえ向きだ。
そう思った不二は、小さく笑って跡部を真似て頬杖をついた。
崩れた髪の毛が筋の通った鼻に掛かっていて、いつもよりも難しそうな寝顔だ。
少しだけ眉間に皺を寄せたその顔が何だか可笑しくて不二は笑ってしまったのだけれど、当人は気付く気配も起きる気配もない。
ゆっくりと流れていく音楽、その旋律の合間に聞き慣れた寝息を聞いた不二は、どうにもくすぐったい気分になって密やかに笑いながら、テーブルの上の参考書に視線を落とす。
難解な数学の方程式。
こんなものに向き合っているくらいだったら、目の前の間抜けな寝顔でも眺めていたほうがまだマシだと、不二はじっと伏せられたままのまつ毛を眺めた。
「…そんな顔して寝てたら、手塚みたいになちゃうぞ」
そう言った瞬間、跡部が不意に目を開いた。
「なんねぇよ、あいつの仏頂面は生まれつきだ」
「あのさぁ、起きてるならそう言ってよ」
彼のその、寝起きにしてはきっぱりとした物言いに顔を顰めた不二は、彼が意地悪い悪戯めいた笑いを浮かべるのを視界の端で捕らえる。
「今起きたんだって」
「嘘つけ、途中から狸寝入りだったろ」
言いながらも、きっと跡部が言っているのは本当で、うたた寝なんかしてしまった自分が何となく不覚でそういう冗談めいた顔をしているんだろうな、という勘でしかない憶測をしたのだけれど、あながち外れてもいないだろう。けれどもその嘘に騙されてやるのもいいだろうと、不二は笑った。
「ま、いいや。ああ…それでさ、この問題なんだけど、この公式で当てはめたらおかしくなっちゃうんだけど」
不二の参考書を覗き込んだ跡部の、頬についた微かに赤い寝跡。
頬杖をついていたせいで跡が付いたんだろう、それをちらりと盗み見た不二は、やっぱり可笑しくなって堪えきれずに笑ってしまう。それをちらりと睨んだ跡部は取り合いようのない不二に気が付いたのか、すぐにどうでもよさそうに溜息を漏らし数式の説明をし始めてしまった。
それもいつものことだと、不二は跡部の声に耳を傾けながら、今度は睨まれない様に内心だけで微かに笑うとテーブルの上に放り出したままのシャープペンを拾い上げる。
窓の外は、気付けばもう夕暮れだった。
END
20040705
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