『泥濘』




「…、」
 ぬかるみというのは、何も舗装されていない道の雨上がりに待ち構えているわけでもなく、人生の至る所に口を開いて待ち構えている。ということを、跡部は否応なしに突きつけられていた。
 今、まさに、だ。
「…別に、怒ってないよ」
 不二は至って平静な顔で、穏やかに呟いた。本当に気にしていないんだ、ということを跡部に伝えているその表情は一見それだけのようにも見える。だが、跡部は知っていた。その一枚下には、平静を装いたい不二と喚き散らしたい不二とが闘ってるはずだということ。
 自分は聞き分けがいいのだという、ある種の自己暗示。
 それでも他の友人にならその曰く自己暗示を押し通せるだろうに、跡部の前ではその自己暗示が緩くなる。
 だから、上手く押し込めなくなってくるんだろう。というのは跡部の勝手な憶測だが、あながち外れてもいないはずだ。

「怒ってなくないだろ」
「怒ってない」
「…」

 怒っていないというのを無理やり怒らせるのもどうかとは思うが、それにしたってその彼らしかぬ不器用さにいささか呆れながら、跡部は部屋の中で突っ立ったままの不二を一瞥した。
 何てことない、いつも通りの平然とした顔をして、不思議そうに自分を見つめ返してくる不二の双眸は自分では気付かない程度に微かに揺れるのだ。それを見つけた跡部は、どうでもよさそうにその平然と頑なな額をを軽く小突いてやった。
「…痛い」
「あっそ、どうでもいいけど、不機嫌になるなら今のうちになっとけよ」
「なんだよ、それ」
「後から拗ねられんのウゼぇし」
「だから、怒ってないんだよ、本当だよ」
 押し問答と言うよりも、これは泥沼に近い。というのは跡部の感想だが、それほどに自分たちの言い争いと呼ぶには些細な言葉の応酬は、残念ながら収拾がつかないのだ。押し問答のほうがまだマシだった。
 自分たちの日常には泥沼や泥濘がたくさんある。
 大概、それは収拾がつかずに泥沼の中で居座り続け、しまいにはそこが泥沼だということすら分からなくなる。というのがいつもの流れ。
 妙なものだ。
「他のヤツはさぁ…お前が急に怒ったらビビるだろーけどよ」
 面倒くさいことこの上ないのに、どうして彼のそんなところまで面倒を見てやらなければならないのだ、という疑問がわかないこともない。けれどもそれは愚問だ。少なくとも、跡部にとっては愚問だった。
「どっかで怒っとかねぇと後から溜まるぞ。あとで一気に発散とかウザいから、怒るなら今怒っとけ」
 そういい捨てると、面倒そうにベッドに転がって、枕元にあった本を手に取った跡部。
 その姿を部屋に立ち尽くしたまま、不二はじっと睨むように見つめていた。
 何を考えているのか、計り知ることはできないがきっともうすぐ理性じゃないほうの不二が勝つだろう、というのも、もちろん跡部の勝手な憶測だ。だから、素知らぬふりで本をめくった。

 カチカチ、と時計の秒針の音が耳につく。
 それほどに静かな部屋。

 数ページも読みすすめたときだった、不意に不二がベッドの上に飛び乗ってきて、乱暴に跡部の胸倉を掴んだ。仰向けに押し倒された跡部は、もしかすれば殴られるだろうか、とどこか遠くにいる自分が冷静に考えているのに気付いて思わず笑ってしまった。
 それが余計に不二の癪に障ったのだろうか。

「…君って、そいういうところがムカツクんだ」

 唸るように不二が言った。
 さっきまでの平静さはどこへやら、危うい凶暴さをむき出しにしたまま彼は跡部の上に馬乗りになってこの期に及んでも可笑しそうに微かな笑さえ見せるその顔を睨んだ。

「何?何様?僕の何が分かるって言うんだい、偉そうにそういうこと言うのが、殴り飛ばしてやりたくなる」

「殴ればいいだろ」

「…、」

 平然と言い放った跡部の顔を睨んでいた不二は、不意にものすごく、それこそはらわたが煮えくり返るに等しいくらいに悔しそうな顔をした。

「ほら、そういうとこムカツク…僕は君が嫌いだ。ホントにすごい嫌い、大嫌いだよ」

 馬乗りのまま見下ろしてくる不二の顔をぼんやりと見上げると、跡部は内心、そりゃあよかった、と思った。もちろん口に出すなんて愚行はしなかったが、代わりにさっきのように笑って見せた。
 彼が、自分以外の人間に『大嫌い』なんて言えっこないのを知っていたから、自然と笑いが漏れただけだ。

「…何笑ってるんだよ」
 やはり面白くなさそうな顔の不二がそう文句を言ったから、跡部は笑い顔を引っ込めて「別に」と答えてやった。彼がそれで納得いくわけがないのを知っていたけれど、あえてそう答えてやる。
 納得して収まってしまうのなら、自分以外の誰かと話していたってできるのだ、不二は。だからそのまま彼が次の言葉を捜しているのを見ていてやる。
 ぬかるみにはまりかけた時は、転ばないように足を踏ん張るのは不二の得意分野だろう。その分、彼は転びきるということに慣れていない。彼が足を取られるべきは感情のぬかるみだ。
「…だいっきらい」
 跡部を張り倒したときの凶暴さはどこへ消えてしまったのか、不二はどこか困り果てたように、怒ることに疲れたようにそうとだけ言った。途方も無い言葉だったのだろうということは、彼の表情から伺える。
 そんな不二を見上げていた跡部を、一瞬キッと睨みつけた不二は胸倉を掴んだまま唇を寄せて噛み付くようなキスをした。乱暴で、ケンカ腰の唇。歯が当たるのも気にせずに噛み付いてくるキスをされながら、跡部はやはり呆れた気持ちのまま自分の胸倉を掴み上げてくる手を解いた。
 案外あっさりと離れた手が、今度は首にまとわりついてくる。
 それでも締めようとして回されるのではなく、噛み付くために回してくるのだからまだマシなのだろうかと思い考えた跡部は、それもどうでもいいことだと思い直して起こしかけた体をそのままベッドに投げ出した。

 幼稚園の泥遊びのようなものだ。
 幼いときは平気で泥に塗れるのに、成長するにつれて泥を恐れる、けれど案外、こういうことを繰り返すと癖になってしまうのだ、たとえ成長した後だろうとも。

 殴る代わりにか、唇を噛まれてしまった痛みに顔をしかめた跡部は、彼を突き飛ばす代わりに口の端に滲んだ血を拭って小さく笑った。






END
20050604

BACK


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送