『虹』
「…虹だ」
となりで跡部が言った。特別驚いたようでもなく、特別新鮮味を感じたというわけでもない、いつも通りの呟きの言葉。
二人で映画を見に行った帰りだった。
映画館に入ったときに降っていた雨は、いつの間にか止んでいた。
どちらかといえば、よく空を見上げるのは不二のほうだったし、いちばん星を見つけるのも飛行機雲を見つけるのも、真昼の月を見つけるのも不二の役目だったものだから、不二は少し驚いたように空を仰いだ。
空には根元の見つからない薄い七色が掛かっていて、反対側は大地に根付く前に、もう薄っすら消えかけていた。
眺めるのには、少しばかり薄い虹だった。
それでも、虹は虹だ。
「虹のさぁ、」
「…?」
「虹の根元にいる人って、自分が虹の中にいるってことに気付かないんだよ。見ている人にしか、彼らが虹の根元に、虹の中にいるって気がつけないんだ」
「?」
意味を汲み取りそこねた跡部が、怪訝そうに隣の不二を眺める。
「虹をさ、幸せに例えた話。本で読んだ、ああ、教科書だったかな…うーん、どっちでもいいんだけど、そういう話」
「ああ…自分では幸せなことを気付かないけど、他人から見たら幸せだってことか」
「そう。でも思うに、やっぱり見えないものはないんじゃないかな、って」
「?」
「他人から幸せに見えたとしても、自分が幸せだと思わなかったら、結局幸せじゃないのと同じじゃないかなって」
僕にはよくわからないけれど、と囁くように言う不二の隣で、跡部はそれが彼の得意の独り言なのか、他人に聞いてほしい独り言なのか、他人の返事がほしい独り言なのか、それともただの会話の一環の言葉なのか判断に困り、結局はただの会話の一環として受け取った。
「難しいところだな」
答えてから、その我ながら陳腐な返答に辟易しながらも、跡部はその言葉の続きを考えて途方もない気持ちになった。不二はときどきこうやって、途方もないことを聞いてくる。本当に、途方もないことを。
「見方の問題じゃねぇの」
「?」
さっきとは逆に、今度は不二がよく分からないというような顔をして跡部を眺める。
切符を買って駅の改札を抜けながら、人混みで混雑したホームで電車が来るのを待つ。こうして二人で電車を待つのはなかなか珍しいことだったのだが、それに触れるということはお互いになかった。
「だから、その虹の根元にいるヤツが虹に気付かねぇのは、客観的な話だろ?他者がいて初めて成立する物の見方だ」
「ああ…そういうことか。僕の意見はあくまでも主観的な考え方の話、ってこと?」
「そう。だから、どっちが本当とか、どっちが正しいってことはないんじゃねーの」
プラットホームの屋根に遮られて、もう虹は半分も見えなかった。それでなくとも消えていっている薄い虹だ。もうじき、たとえ見晴らしのいいところにいたって見えなくなってしまうだろう。
それでもその薄い水に溶いたような虹を見上げた不二は、笑いながら言った。
「…虹に気付ける人になりたいな」
その呟きは、今度はきちんとした独り言だった。それを知った跡部は、相槌を打つなんて愚行は犯さずに、ただ、すれ違おうとした駅員の邪魔にならないように一歩左、不二のほうへと身体を寄せる。意図せずに、跡部の左肩と不二の右肩がぶつからない程度に軽く触れた。
休日の夕方のホームは例に漏れず混雑していて、小さな女の子が若い母親に手を引かれ、赤い風船を揺らしながらじっと電車を待っている。それを何気ない視線で追いながら、不二は得意の微笑を浮かべた。
穏やかな笑だった。
「混んできたな」
「ああ」
ホーム内に電車がやってくるアナウンスが流れ、その電車に間に合わせようと新しくホームに下りてきた人波や乗り換えを待つ群れが集まってくる。触れ合う肩をそのままに、プラットホームへと電車が滑り込んでくるのを眺めていると、握るでもないお互いの手が何気なく触れ合った。
人混みのざわめき、電車の音、アナウンス、駅員の声、そういうものにかき消されない不二の微かな囁きが、触れて離れた指と入れ替わりに跡部の耳朶を撫でる。
「今、虹の中にいたね」
見上げなくても、もう虹は消えてどこにも見当たらないだろうことは跡部にも容易に想像ができた。だから、苦笑いを返して答えてやるのだ。
そうすると、虹が見えるような気がしたから。
「…そうだな」
満足そうに笑った不二から開いた電車のドアへと視線をめぐらせ、流れる人混みに任せて電車へと乗り込んだ。電車の窓に切り取られた空には、やはりどこにも虹は見当たらない。そう思いながら満員電車の窓の外を眺めていた跡部に、不二は可笑しそうに笑った。
「虹が見えないときって、案外自分が虹の根元にいるから、見えないだけかもしれないね」
返事の変わりに苦笑を返すと、不二はさっきと同じように穏やかに笑って晴れた窓の外へと視線を移していった。
END
20050530
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