『亡骸』




 空を見上げ、アスファルトを見下ろした。

 世界は何も変わらない。

 だから僕は不思議な気持ちになって、着ていた黒いパーカーを脱ぐ。今日は暑いから、Tシャツ一枚でも肌寒くはないし、大丈夫、夕方には家に帰るつもりだったし、いざとなれば跡部の家で何か羽織るものを借りて帰ってもいい。
「…おい、」
 隣にいた跡部が、不思議そうな声で僕を呼んだ。
 引き止めるようで、何をするのかという疑問も含んだ声の色だった。
「ちょっと待ってて」
 車道を行き交う車が、赤信号で止まった。流れをストップされた道路は、向こうに見える遠い横断歩道を横切る人以外に生き物の姿はなく、僕は気持ち小走りに道路の真ん中のほうへと向かった。手には黒いパーカー。繊維が綿だから、肌触りがよくて着やすい。
 でも別になくなっても大して困らない、そういうパーカー。
 僕が行くと、目の前に止まっているの車の運転手とフロントガラス越しに視線が合った。何をしようと言うのかと言う興味と好奇を持ち合わせた瞳が僕を追いかけてくる。善良そうな初老の男だった。悪意のない視線をまといながら道路の真ん中にしゃがみ込むと、ボロボロの雑巾か何かみたいに真ん中の辺りがペシャンコになって平らになったお腹を見つめた。目玉が飛び出していて、だらりと伸びた手足。
 てらてらとした血色の良い腸がだらりとはみ出しているのは、多分、柴犬だった。
 首輪はしていない。
 遠くの横断歩道の信号がチカチカと点滅を始めたのに気がついた僕は、彼にパーカーをかぶせると手早く抱き上げた。彼の体の部品を全部、零してしまわないようにくるりと布に包んで、触れた腕の中の温度に彼がまだ息を引き取ってからさほど経っていないらしいことを知る。
 赤になった歩行者用信号、青になった目の前の信号。
 顔を上げると、さっきフロントガラス越しに見た男は、まだ僕を見ていた。代わった信号に僕をせかすこともなくただ、腕の中の彼を落とさないように慎重に歩いて歩道に戻ることを許してくれる。善良な、弱者を守る庇護者の視線だった。
 後続の車がクラクションを鳴らすのも構わずに僕が歩道に戻るまでを見届けてくれた白のクラウンの運転手に、小さく会釈をすると、彼はただ目を凝らさないと分からないくらい微かに頷いてゆっくりと走り去っていく。

 戻ってきた僕を待っていたのは、跡部のいつもの呆れ顔だった。
 何か言おうと開きかけた唇を見つめていた僕に、彼は用意していた呆れや文句ではなく、それを飲み込んであえて僕の腕の中の黒いパーカーを見下ろした。

「…どうするんだよ、それ」
「もう死んでる」
「そんなの見れば分かる」
「公園に埋めてあげようよ」
 
 僕がそう提案をすると、彼は少しだけ、無遠慮ではない程度に驚いた顔をした。僕の言葉が意外だったようで、まあ、言われてみればもっとこういうことに対しては淡白なタイプだと思っていたのかもしれない。正直、こういうことには淡白な性質だ。
 現に腕の中の彼に対して涙や憤りや、それに類する感情はミジンコの頭ほども湧いてこない。
 そういうものだ、という漠然とした気持ちだけが腕の中の彼と一緒に、ちょこん、と小さく座っていた。

「だって、保健所かどっかに持って行っても、火葬じゃないか。その後どうするのか知らないけどさ」
「…?」
「だったら公園の木の養分にしてやったほうが、道理に適ってる感じがするだろ?そういうの、詳しくないけど、炭素とかリンとか、そういう元素が循環してく感じがする」
「…」
「たとえば彼が死んで、それが木の養分になって木が大きくなったら虫が葉っぱを食べるし、鳥だって巣を作るかもしれない。その鳥が虫を食べて、鳥が野良猫に食べられて、猫は道路で車に轢かれて死んで、僕みたいな変なヤツに拾われて公園に埋められる。外れそうな輪が、きちんと元に戻るだろ?たぶん、ずっとずっと昔は、僕みたいな変なヤツが手を貸さなくたって、きちんと輪っかになってたんだ。それって、すごくない?」

 特に考えもなくそういうことを言ってみたのだけれど、跡部は少しだけ考えるように黙った後、ただ一言「そうかもな」と頷いてくれた。
 他の誰かが蔑ろにしないでもない程度に聞き流してくれる僕の言葉を、ひとつずつ拾い上げてきちんと自分なりに解釈を付けてくれる。僕は君の、そういうところを尊敬しているよ。口に出しては言わないけれど、嘘じゃないよ、本当に。

「ま、公園に埋めるのって法律にひっかかりそうだけどな、いいんじゃねぇ?」
「じゃあ、そこの角の百均でスコップ買って行こうよ」

 僕は、腕の中の黒いパーカーをそっと抱えなおす。
 いつのまにか冷たくなった彼の代わりに、隣に並んで歩いている跡部の声が、鼓膜に沁みこんで温かく心地よかった。






END
20050520

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