『時』




「不二、どうした?」

 いつもと、どこか違うと感じたのが、理由のあるものなのかないものなのか、そもそもどうしてそう感じたのかも問いかけた本人は分からずに、不思議そうに振り返った視線の主を、逆に見つめ返してしまった。不思議だと、そういう感想を含めて。
 空は高く、もう春も終わって夏が近い。
 次第に軽くなっていく空気や、大会へと向ける意気込みなども部活をにぎやかにする要因のひとつだと思うのだが、それにしたって、最近妙に彼の機嫌が良く、というのも常日頃気分の浮き沈みを顔に出さない性格から察するに、よほど機嫌がいいのだろう。そう思わせる彼がなぜか不思議に思えた。
 彼は、ここまでよくも悪くも感情を露にしない性格だから。
「…どうしたって、何がだい?」
 ご機嫌の高気圧が胸中に飛来したているのか、それとも何か他にあるのか、不二周助は不思議そうに乾を振り返って、そうして笑った。何か含むところがあるでもない、ただの微笑だった。
「いや、最近妙に機嫌がいいなと思って」
 特別気にしているわけでもないが、気付いたから、という意味合いをこめた軽い口調で答えたのだが、不二はその微笑を崩してどこか苦笑いめいた表情を浮かべる。昔はまったく見かけなかった表情だ。そしてここ最近、特に見かける表情。
 穏やかな苦笑い。
「僕、そんなに顔に出てる?」
「…まあ、出ていないこともないな」
 その言葉を受けて、彼は穏やかに笑んだ。
「英二にも、この間言われたんだけど、そんなに分かりやすい顔してたのか」
「ああ、機嫌が良いってより、あれだよ」
「?」
「…丸くなったな」
「…僕は元々丸いさ」
 きっと乾が言いたいことを理解したのだろう、ラケットで肩をトントン、と叩いた不二は、順番の回ってきたらしい紅白戦のコートへと足を向け、そして振り返った。
「本当、人生って理屈じゃないね、乾」

「…」

 久しぶりに悪戯めいた笑みを見せた不二は、今度こそ対戦相手である菊丸英二の待つコートへと、足取りも軽く入っていった。










「…まだ帰らないのか?」

 部室に入ると、珍しく不二が一人でベンチに座っていた。手元の開いた文庫本。カバーが掛けられているために、タイトルや作者については何も分からないが、それほど厚いものでもない。
 彼はその文庫から顔を上げ、委員会のために遅れてやってきた乾へと視線をめぐらせた。今日は委員の仕事で部活が欠席だったが、部室に置き忘れたものを取りに来ただけだ。他の部員はもう帰った後だったし、正直、職員室に鍵を取りに行った際、まだ使用中だと言われて怪訝にも思った。
「人と」
 言いながら、文庫を閉じる手。
「待ち合わせをしてるんだけど、まだ時間には早いから」
 もしかしたら読んでいたわけではなかったのだろうかと、無駄な憶測をしたくだり、乾は棚に入れてあったノートをひっぱり出した。ロッカーの使用権はレギュラーと三年生にのみあり、よってまだ二年生でありレギュラーではない乾には個人使用のロッカーはなかった。
 目の前の、不二周助はそれを持っているのだが。

「って思ったんだけど…面倒だから、もう帰ろうかな」

 突拍子もなく呟かれた言葉は、普段温和な彼の唇からは到底出てくることのないような素っ気なさ。
 怪訝に思って振り返った乾に構う素振りもなく、彼はただ、文庫を鞄にしまうでもなく、部室の片隅に置かれたままのゴミ箱へ、ただの紙くずでも捨てるような雰囲気で投げ入れてしまった。
 本を、だ。
「…不二、」
「何だい?」
「何って、本」
「ああ…捨ててあったやつ、拾っただけだったから」
 素っ気なく答えた彼は、肩をすくめて笑った。
 いつも見せる、当たり障りのない表向きとしか思えない愛想笑いだった。


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