『墜落』


「…跡部なんか、跡部なんか」

 小声で呟かれた言葉は、心なしか震えていた。
 ただこの場合、悲しみやそういう類の感情で震えていたわけではないというのは、話の流れからではなく、常日頃の彼の、不二周助の行動パターンや感情の起伏からも想像がつく。
 そう、彼はただ怒りのみで声を震わせていた。
「跡部なんか、いっぺん死ねっ」
 渾身の力でと握りつぶされたチケット二枚が、不二の手のひらの中で見事にひしゃげるのを傍目から眺めていた越前は、部活後の一人二人と部員が帰り始めた部室のベンチに座って面白そうに笑ってみる。彼らのケンカはいつものことだったのだが、よくネタがつきないものだと半ば感心した気持ちもあったのだ。
「今度はどうしたんスか?」
「約束ドタキャンだとさ。さっきメール来てたみたいだぜ」
 答えたのは不二ではなく菊丸のほうだったが、それで事は足りたので越前はただ相槌とも何ともつかない「へぇ」というような曖昧な呟きを返した。と、すぐに「この劇団のチケット取るのにどんだけ苦労したと思ってるんだ」と怒気を含んだ声が越前の耳朶を打つ。
「…芝居なんスか?」
「そう。前から見たいねって言ってた舞台」
「いつ?」
「明日の昼公演」
 なるほど、明日は祭日で部活が休みだ。そう納得した傍らで、菊丸が不思議そうに首をかしげた。
「でも何で急に駄目になったんだろな?アイツ、あれで案外約束守るほうじゃん?」
「…知らないよそんなこと。ていうかね、案外守るほう、じゃなくて案外破るほうなんだ。そこ、しっかり覚えといて」
 いつも先輩ぶって大人風を吹かせる不二は、珍しく唇を尖らせて拗ねた声でそう言った。大概のことは笑って許し、大概のことは猫をかぶって温和にやり過ごす彼らしかぬ言動だったが、それも跡部景吾がなせる業なのだろうと思うと、それさえも笑えてくる。
 もう部室に残っているのが仲のいいレギュラーたちだけになってしまったのも、彼が本性をだか何だか分からないものをさらす要因になっているのか。
 堪えることもなく笑った越前を、ちらりと睨んだ不二。
 するとタイミングが良いのか悪いのか、机の上に乗せていた携帯電話のバイブが鳴った。くぐもった振動音で机が震えるのを、少し睨んだ不二は迷いを断ち切るように勢い良く携帯を掴み取ると耳にぶつけんばかりに押し当てた。
「もしもしっ」
 その剣幕に、相手が跡部であろうことをその場にいた全員が察してしまうと、もう各々首を突っ込むのは得策ではないということで、いそいそ帰り支度を始める。その中、不二だけが断固ベンチに座ったまま「はぁ?」だの「なにそれ」だのと文句を連ねていく。
「だいたいさぁ、そんなのあの監督のことだから、ただの下らない職権乱用だって。下心ありあり。行かなくていいだろ?」
「…」
 顔を見合わせて肩をすくめた菊丸と越前は、我関せずを決め込んでもくもくと着替えをしている手塚や、胃を痛くしながらも極力触れるべからずを努めようと日誌を書き込んでいる大石同様、関わっていいことがある試しもなかったと、傍らに置いてあった鞄を持ち上げた。そのときだった。
 なぜか不二周助が、部室のプラスチック製の安いベンチの上に勢い良く立ち上がった。
「?」
 怪訝そうに見上げた越前をよそに、彼は威勢よく言い放つ。
「僕、今すごい高いところに立ってるんだからな。明日の約束破るんだったらここから飛び降りるぞっ」
 眉を潜めてベンチの上の彼を見上げた部員たちをよそに、不二は携帯電話の向こうにいるだろう跡部に向かって、ふん、と息を荒げた。
 嘘だろうと何だろうと自分が判断したところでこの人はいつだって本気で真面目で、実は内心一芝居打っているんじゃないかと疑うほどに大真面目だから、みんな疑心暗鬼にもなるだろう。と、越前が思ったところで、実際のところ彼が本気か芝居か、はたまた大穴予想、天然か、ということは判断がつかないわけだ。
「ここから飛び降りたら、死んじゃうぞ」
 脅迫のつもりなのだろう。
 ということは判断できたが、生憎それを生真面目に受け止める人間はこの場にはいなかったということだ。と信じたかったのに、現実と言うのは越前には無常なものらしく、背後で河村が「不二、わかったから、とりあえず早まるなよ」と右手を軽く持ち上げてた姿勢のまま、近づくに近づけないという雰囲気を漂わせておろおろする始末。傍らの菊丸が「いや、ないから。ありえないから、タカさん」と宥めると、電話越しの跡部もそう思ったのだろう。
 何を言ったのかは想像でしかないが、少なくとも突き放しただろう物言いを想像したところで、不二が「飛び降りてやる」と言うや否やベンチを蹴った。
 あきらかに着地できる高さを、不二は作為的にか天然がなせる業かごろごろと部室の床に転がってくれる。たまたまその手から離れた携帯電話が、越前の目の前に転がったものだから、何気なく拾い上げ耳を当て「もしもし、跡部サン?」と話し掛けた。事態の収拾をどうしたらいいものか、という気持ちもあったといえばあったわけで。
『…、越前か?』
「そうっス。アンタの彼氏、どーしたらいいわけ?死にそこなってジタバタしてるっスよ」
『あー…どうせイスか机から落ちたってだけだろ?いつものことだからほっとけ、付き合ってたら日が暮れる』
「なるほど」
『悪いな、放っておいて帰っていいぜ』
「 了解っス」
『ああ、じゃあな』
 ぴ、と通話を切った越前は、ウンザり顔で不二の回収を試みようとした手塚に「あ、部長…そのまんま放っておいていいって、跡部サンが」と言うと、我らが部長はいつもはみせない安堵の表情を微かに浮かべて「じゃあ不二、鍵閉めておけよ」と早々踵を返して部室を出て行こうとする。
 すると、今までジタバタしていた不二が、むくりと起き上がって溜息を漏らした。
 今までの言動からはかけ離れた、アンニュイな溜息だ。
「…ねえ越前」
「何スか」
「次は、一階の窓から飛び降りたほうがいいかな」
「………そうっスね」
 もういい加減にしたらどうだ、という言葉を誰一人として伝えられないレギュラー陣は、さっさと気分を切り替えたらしく「明日暇だったら誰か一緒に行かない?チケット代おごるけど」と言いながらにこりと笑った不二の言葉を聞き流すように、部室を後にした。




END
20050504

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