『溜息』




「…ゆーうつー」
 憂鬱だと名言したとおりに憂鬱で辛気臭く、なおかつうんざりとしか形容のしようがない顔を両手で覆った菊丸英二は、「あー」でもなく「うー」でもなくその中間の音を器用に喉から漏らしながら不二の部屋の不二のベッドに体を倒した。
 彼のを受け止めたベッドの音を聞くともなく聞きいた不二は「そうだね」とあまり考えても思ってもいない相槌を打ち、そうして机の脇に置いてある棚に手を着いて中身を眺める。
 外は雨だ。
 窓ガラスを叩くパタパタと言う音。
 不二にしてみればどうでもいい雨音さえも、今の英二には気持ちに拍車を掛ける材料になりうるらしい。彼はただ、ベッドの上に置いてあった自分の携帯に手を伸ばしさっきと同じように呟くのだ。
「あー、もーマジ憂鬱」
 結局棚の中からクラシックのレコードをひっぱり出し、ベッドの英二を振り向いて「クラシックかけてもいい?」と了承を取ると彼はどうでもよさそうに頷いた。今の気分は音楽なんて聴いちゃいられないというところなのだろうが、これが案外、馬鹿にしてもいけないのだと不二はひっぱり出したラフマニノフをセットして針を落とす。
 ブツ、という聞きなれた雑音。
 ピアノ協奏曲第二番、ハ短調。
 自分で買ってきたものではない。母親の知人が捨てると言った大量のレコードを譲り受けた中に入っていたもので、ピアノはヴラディーミル・アシュケナージ。それと、モスクワフィルの演奏だ。アシュケナージというピアニストは音楽院在学中にワルシャワのショパンコンクールで第二位、ブリュッセルのエリザベスコンクールで第一位だったらしい。というのはジャケットのウンチクだ。
 正直なところ、彼の名前を聞いたことはないし、このレコードの裏書を見るまでまったく知らなかったが古いピアニストだから知らないのも仕方ないと不二は思い、古臭いレコードや紙の匂いを払うようにベッドに突っ伏したままさめざめとしている英二を振り返った。

「憂鬱って言ったって、自業自得だろ?」
「…そうだけどー、」
「じゃああきらめて頑張るんだね」
「お前さ、簡単に言うけど、頭の出来が違うヤツにそーいうこと言って頑張ってどうにもなんなかったらどーすんだよ」
「僕が知るわけないだろ。ま、適当に頑張れよ。…何か飲む?」
「コーラ。ねー、真面目にテスト勉強すっから、終わったら何かDVD見よっ」
 ごろりと寝返りを打った英二の、末っ子の目が見上げてくるのを不二は追い払う術を知らない。意図的とも思えるほど甘え上手のこの目に見つめられてお願いされた頼みごとを、理由をつけて一度断ってはみても結局折れるのはいつも周囲のほうなのだと、特に数学とリーダーの宿題を文句を言いながらも写させてやる立場としては多少憎々しげに見つめ返した不二は、あきらめて笑ってやった。
「…じゃあちょっと待ってて。短時間で扱いてやるから、せいぜい心の準備でもしておけよ」
 返事の変わりに聞こえた溜息を耳に入れ、不二は自分の部屋を後にした。







 グラスを食器棚から出して、二つ並べる。コーラを飲まない不二家にコーラのペットボトルがあるのは、母親が友達に、と気を利かせてたまに買ってくるものなのだが実際のところ跡部だとか英二だとか他のクラスメイトだとかは、コーラをリクエストすることも多いから重宝はしていた。
 透明なありきたりな形のグラス。
 ちょっとしたカフェなんかでもよく使われているずんぐりとしたフォルムを何気なく眺めながら注いだコーラの気泡を見つめて、ふと、部屋を出る前に聞いた英二の溜息を思い返した。
 彼の性格からしてかなり珍しい溜息だ。
 国語の古典テストをやったのが先週、抜き打ちじゃなかったにも関わらず赤点モノの答案をつき返され次の定期テストで挽回できなかったら補習だと言い渡されたのが三日前、もうすぐ定期テストの時期だという事実が英二を焦らせたのは目に見えていたが自分で真面目に勉強し始めたのが一昨日、そして自分じゃ埒があかないと気付いたらしいのが昨日、『お前古典出来るんだから教えろよ』と半ば殴りこみの勢いで乗り込んできたのがついさっき。
 コーラのグラスをキッチンに置いたまま、不二は何かつまむものがないかとキャビネットを開けるとちょうどよくポテトチップスコンソメ味の袋が入っているのを取り出して小脇に挟むと両手でそれぞれグラスを持ってリビングを出た。
 コーラとポテトチップスという組み合わせに、突如思い出した他人の溜息。
 それは英二の溜息じゃなく、跡部景吾の溜息だった。呆れたようなどうでもよさそうな、それでいてどこか。
 どこか、苦笑いを帯びたそれ。
『君の溜息って、癖?よくやるじゃないか、人を小馬鹿にしたみたいなの』
 いつだったか自分が言った言葉。
 思い出すと同時に跡部の苦笑いが脳裏に浮かんだ。
 もしかすればあのときかかっていた再放送のドラマのBGMはラフマニノフだったのだろうか、思い返したけれど、そればかりはどうにも思い出せずに、目蓋の裏の跡部はただもう一度だけ苦笑いを漏らした。


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