『背中』


 極まりが悪いときに、相手にかけるべき言葉と言うのは思っている以上に持ち合わせていないものだということを、不二はそのときやけに強く感じた。もしかしたら自分でも気付かないうちに頭が少しばかりパニック、とまではいかなくとも思考が混乱する程度には不味い状況でかき回されていて、後から思い返せば、ああ、あのときこう言えばよかったのだろうか、と思い返せるのだろうかと妙に気まずい空気の中まったく別のことを考えた自分を、また自己嫌悪する気持ちもある。
 ただ自分が自己嫌悪したところで何も変わらないし、状況は自分が発する言葉に左右されることなく気まずいままなのだろうと、分かってはいても人間と言うものは状況が不味ければ不味いほど何か言わなくてはならないような錯角に陥るんだろう。
 そういう例に漏れず、不二はただ一言だけ唇に昇らせた言葉の無難さと滑稽さと無機質さにまた自己嫌悪を感じた。
「…ありがとうございました」
 ほら、やっぱり滑稽だ。そう胸中で呟いた不二は、ネット越しに差し出された先輩の右手を不自然ではない程度の力で握り返しながらその、自分より二年先に生まれた指を見つめた。そして顔を上げる。
 努力や、そういう地道に積み重ねてきたもので乗り越えられない何かに気付いた人間独特の、やるせないような、どうしようもない笑みを浮かべた先輩。積み重ねてきた全てが、高校に進学してすぐのランキング戦に割り込んできた一年生に崩されて、何となくそう遠くない未来にコートに立ったままでは生きていけないのだろうと気付かされ、もしかすればコートに立ち続けて、ボールを追い続けて生きていけるかもしれない他人をネット越しに見たときの気持ちは、多分不二には一生分からない。
 それでもその『ありがとうございました』が滑稽に聞こえるんだろうということは、不二にも理解できた。そしてそれが、自己嫌悪に繋がる。
 だから、柔らかく笑い返してコートを出た。
 そうする以外に自分がどうしたところで、彼の気持ちを拭えることは不可能だからだ。そういう気持ちに堪えて上に向かっていくんだろう。手塚が、海外留学したように、越前が、そうやってきたように。きっと迷わずに上を見続けるように見える彼らだって、不二と同じように心の内には何か抱えているはずだ。
 それを他人に悟らせないことが、彼らの強さなのだろうか。
 それなら自分も、強くありたい。
「…」
 笑顔を崩さないままフェンスの外へと出た不二は、その柔らかな微笑を少しだけ崩してけれどしっかり微かな笑みを浮かべたまま小さな小さな、誰にも気付かれないくらいに密やかなため息を漏らした。





「…、不二?」
 
 心底怪訝そうな跡部の声だった。家にやって来るなり跡部との会話もそこそこベッドに倒れこんだ自分を、それは怪訝にも思うだろうと不二自身思うのだが、どうにもこうにも跡部の前で取り繕う気も起きずにただその嗅ぎ慣れた匂いの染み付いた枕に顔を押し付けた。
 今日の部活で試合の後に吐いたため息とは違う種類の、安堵にも似たようなため息を漏らす。
 ごろりと仰向けに転がって天井をぼんやりと見つめていると、跡部が何か問いかけるのをあきらめたらしく、ベッドの縁に腰を下ろしていつものように読みかけだったらしい本を机の上から取ってページを開いた。
 天井から視線を移す。その、素っ気ない見慣れた背中へと。
 そしてページをめくった紙の擦れる音を聞きながら、むくりと起き上がって、素っ気ないのにあえて何も聞いてこないという気遣いのようなものが受け取れる背中に指を伸ばして抱きついた。骨ばった全然気持ちよくない背中に頬を押し付ける。と、耳を当てた体ごしに肺から空気が漏れる音がした。聞きなれた跡部のため息だった。
 聞きなれた「何」という素っ気ない言葉、腕に馴染んだ気持ちよくない体。
「…何でもないけど、少しだけ待って」
「いや…いいけど、あれだな」
「なに?」
「お前大人しいと何か怖い」
 気遣いとは別に個人的な畏怖を込めた言葉に不二は少しだけむっとしつつも、その腕を放すことなく彼の背中に耳を当てたまま唇を尖らせた。顔が見えていないのにきっと自分の拗ねた顔が跡部にはお見通しなのだろうと気付いて、苦笑いにも似た感情を持ち合わせた不二は、息を漏らすように笑った。
 跡部を少しだけ真似たつもりの、苦笑いだった。
「…僕だって、たまにはへこむことだってあるさ」
「…あ、そ」
 答えた跡部の口調も、苦笑いが混じっている。
 ただ黙って自分に回された腕を軽く、のんびりとした動作で叩いた跡部。とんとん、と規則的な心拍を思わせるようなリズム。
「…」
 耳に馴染んだ苦笑いを聞きながら、その背中に頬を寄せたて思った。
 自分は弱くない。でも強くもない。だから少しへこんで疲れたときは、この背中に寄りかかって少しだけ休んで、元気になってまた頑張ろう。毎日踏み台にしていく誰かに恥じないように、上を向いて歩こう。
「よし、充電完了」
 高校に入ってもつるんでいる悪友の口癖を真似て笑うと、その背中から離れた。
 跡部はいつもどおり、何も言わなかった。
 それでいい。
 ごん、とわざとらしく跡部の背中に頭突きをして「何すんだよ」と捕まえようとしてきた腕をかいくぐって逃げると、笑いながらベッドに転がる。
「明日土曜日だろ?午後から、暇?」
「ああ、夕方からなら。部活3時で終わるから」
「じゃあ軽く打とう」
「いいけど、お前負けるぜ?」
 さっきまでの苦笑いとは打って変わって意地の悪い笑みを返してきた跡部を軽く睨んで不二は「上等。明日は勝ってやる」と言い捨てた。
「…言うだけならタダ」
「後悔するからな、そんなこと言ってると」
 不敵に笑った不二の頭を、跡部は「調子乗んなよ」と呆れたように軽く叩いた。不思議とさっきまでの精神衛生上あまり歓迎ではない気持ちはなくなっていて、だから、ただ笑う。
 笑うことでどうにかなるような気がするのはあながち錯覚でもないようだ。
 微笑を浮かべたままベッドに寝転んで、また本に視線を落とした跡部のその背中を人差し指でさすと口の中で小さく、自分にだけ聞こえるように小さく呟いた。
「…魔法の背中、だな」
「何?」
 怪訝そうに振り返った跡部。
 だから不二は悪戯めいた笑いを返して、ただ言ってやった。

「なんでもないさ」




END
20050416
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