『隙』





「…不二?」

 跡部が部屋に戻ってきてみると、コーヒーを入れて来いと言った張本人である不二周助は床に転がったまま眠り込んでいた。心地よさそうな寝息を立てて、座るために置いてあったクッションに頭を乗せて、彼はただ呼びかけにこたえることもなく眠っている。
「…、」
 一度つま先でつついてみても、不二の目が覚めるわけもないしましてや二つ持ってきたコーヒーのカップの飲み手が見つかるわけでもなく、跡部は仕方なく机の上にカップをひとつ置くと自分の分のカップに口をつける。その静かな黒い湖面を見つめながら、どうしたものかと考えたところで大体の相場と言うものは初めから決まっていて選択肢と言うものはあまりないのだと、跡部は鞄から今日本屋に寄って買ってきたばかりの本を取り出して不二の隣に腰を下ろした。
 相変わらず気持ちよさそうに丸まっている不二は、部屋の蛍光灯の明かりが嫌なのか腕で顔を隠しながら器用に眠っている。
 そもそもこの短時間でよく眠れるものだと半ば感心にも似た気持ちを抱きながら、跡部は真新しい紙の匂いのする本を静かに開いた。

 こういうのは嫌いじゃない。
 静かな空気なのに自分ひとりではなく、好きな本を読みながらコーヒーを飲んで音を立てないようにページを捲るときの紙と紙の擦れ合う音だとか、耳を澄ませば聞こえてくる寝息だとかが、静かな中にそういう些細な音が紛れ込んでいて、それがなおかつ無機質ではないということに、ただ心の内のみで苦笑いを滲ませる。

 そうしてしばらくの間、コーヒーを飲みながら膝の上に本を乗せて読書に勤しんでいた跡部だったのだが、不意に不二が身震いをしてのんびりと目を開いた。彼の目覚めはいつも唐突だ。ただ、完全に目がさめるということもなくどちらかというと寝ぼけていることのほうが多いようにも思える。

「…寒い」

「床で寝るからだろ…ベッド行け、ベッド」

 顎でベッドを指したのだけれど、不二はどうも短時間とはいえ寝起きの億劫さが付きまとうようでベッドの上の雑誌をよけるために立ち上がった跡部を見上げると「…起こして」とだけ言って面倒そうに両目を閉じたまま両手をぶらりと持ち上げ、跡部のほうへと向けた。
 引っ張って起こせと言うのだ。
 呆れた気持ちを内側から遠慮することなくさらけ出した顔をしてやったのに、不二はといえば目を瞑ったままどうでもよさそうに跡部のため息を無視してくれる。
 というより半分寝ているんだろう。
 あきらめを伴ってその両手を掴んで引っ張ると、不二がどうにか起き上がってそのままの流れでベッドに転がった。のろのろとした動作でケットの中へと潜り込んでいく様にどこか動物めいた何かを思い出しながらも、跡部は不二が寝転んでいた場所に転がっていた読みかけの本を取り上げて本棚へと戻す。自分のではなく、さっき跡部がコーヒーを入れに下に降りるまでは不二が読んでいたはずの文芸書だった。
 そうして自分が読みかけのまだ数ページも進んでいない本を手にして、床とベッドを見比べた結果、たいして考えもしないうちにベッドを選んで不二が寝息を立て始めたとなりにもぐりこむ。このほうが暖かい。という以外の理由は見当たらない程度の考えの元、だ。

「…むー」
 寝ているの起きているのか今一判断に困る不二が、暖かさを察知したのか寝返りを打って跡部の左半身に寄ってきて暖を取り始めたのを、跡部は呆れたように見ていたのだけれどそこから動かなくなった彼が完全に眠ったのだろうと思い、また本に視線を落とした。
 紙の端を指先で無意識に触りながら、文字の羅列を視線がなぞる。
 そうやって読み進めてゆっくりとページを手繰ったときだった。
「…、」
 おもむろに不二が起き上がったのと、跡部が身構えるのとで言えば、今回に限っては軍配は不二に上がってしまったということだったのだが、跡部にしてみればそんな無慈悲な話はあってはならないのだ。だけれど、やっぱり現実と言うのは巻き戻し機能なんてものはついていないわけで。
 ようするに、不二が起き上がって跡部の耳に息を吹きかける方が、跡部が不二の頭を押しやるよりも早かったということだった。

「…、っ―!」

「…隙あり」
 本を放り出して耳を押さえた跡部に、不二は唇をゆがめてにやりと笑ってみせる。
「今さー、素だったろ?すごいエロい顔だったよ。やっぱ耳弱いんだね」
「お前にだけは言われる筋合いねェよ!つーか途中まで素で寝てただろーがてめぇ!」
「起き上がったら目がさめたんだよ」
「…なんだその仕方ないみたいな言い方。だいたい」
「うるさいなぁ、ただの悪戯だろ?大目に見てよ」
 言うだけ言ってまたごろんと寝転んだ不二の頭を、跡部は本の角で叩くとあきらめてベッドを出た。そうして机の上の冷めたコーヒーを飲んでいるその後姿に、不二の恨めしそうな声が追いかけてくる。
「…痛い」
「因果応報」

「あとで覚えてろよ…チンコ齧ってやる」
 
 眠たそうに顔を埋めた枕から、不二のくぐもった声が聞こえていた。








END
20040415

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