『黄身』




「…危ない」
 不意に、不二が言ったその意味を汲み取れずに跡部は眉を顰めた。というのも不二の家の近所のセブンイレブンに飲み物と少し小腹に入れる菓子類と彼の母親に頼まれた、卵の十個入りパックとを買いに行った帰り道を歩きながら彼がそう言ったら誰だって分からないだろうと跡部は思うわけだ。
 けれどやっぱり不二は、良心的な説明も何もないまま。
「…っ」
 跡部が疑問の声を上げるよりも、不二が駆け出すのが先だった。
 瞬間となりから彼が消えたような錯覚を伴って、次の瞬間視界に飛び込んだのは、セブンイレブンのビニール袋を手から放り出しながら車道に飛び出した後姿だった。それから一拍遅れて視界に入る、さっきは陰に隠れて見えなかった、サッカーボールと小さな少年。少年と呼ぶには早すぎるかもしれない、幼い子供だ。
 不二のその、ラケットを握ることに最近やけに執着している右手が、路上に飛び出した子供をかっさらう。
 小さな少年を体に抱え込むように車道を転がると、車のブレーキ音と誰かの悲鳴、これは不二のでも子供のでもない、多分母親だ。それから観客の息を呑む音だったり無意味に遅い「危ない」という警告だったりが跡部の耳に飛び込んでくる。
 危機感を伴うとスローモーションに見えると言う小説的な表現があながち外れでもないのだと、跡部は実感しながらいつもより緩慢に動く世界の中で、すぐに自分が出て行っても加勢も補助もできないことを悟ると、とりあえず車道で体を起こした不二の傍に駆け寄った。
「…あの馬鹿め」
 唇から叱咤。
 一瞬頭を殴ってしまいたい衝動を抑えて、本当に数センチ手前で止まったらしいトラックの運転手が降りてきて二人の無事を知って胸をなでおろすのを視界の端っこで捉えた。

「…わー、危なかった」
 頭を掻いて、まるで他人事のように驚いたような声を上げた不二。
「大丈夫だった?」
 彼は少年を腕から離すと、そのかすり傷ひとつ付いていない顔を覗き込んで笑った。周りがざわついて、母親らしき女性が慌てて駆け寄ってくる。
 跡部が何を言ったらいいものかと立ち尽くしていると、不二は少年を彼女に引き渡して、病院に行ったほうが、という車の運転手をほとんど無視するように「大丈夫です」と答えながら、跡部そっちのけで歩道のほうに戻っていく。
 それを呆れ半分安堵半分で追いかけた跡部に、彼は振り返って「八割壊滅」とだけ言うのだ。その手にはビニール袋。彼はそれを覗き込んでため息を漏らした。
「何が」
「たまご」
「…、」
 思わず頭を抱えてうずくまりたくなった跡部の気持ちを、きっと不二は知らないんだろう。
 自分の腕やら何やら眺めて笑う。
「すごいだろー、かすり傷ひとつナシ。やっぱ僕って天才かな」
 へへー、と自慢げに笑った不二は、それが自慢にならないことをきっと知らない。だから跡部はとりあえず、恐る恐るその頭に触れて「頭、打ってねぇの」と尋ねた。
「大丈夫だよ、受身取れたから」
「…あ、そ」
「飛び出す前に君に渡してたら完璧だったのになー」
 どこか残念そうにさえ呟いた不二は、もう何も言う気になれない跡部を振り返って「セブンイレブン、戻ろうか」と一言。
 だから結局、跡部は呆れを含んだため息しか吐けないのだ。
 あきらめて歩道を歩き出した不二の元に、さっきの幼い少年が走ってくる。一緒にやってきた母親が頭を下げるのを止めながら、不二は彼の目線に合わせるようにしゃがみ込むと、にぃっと珍しい種類の笑いを浮かべて「次からちゃんと気をつけろよ」と幼い頭を撫でてやった。
 隣で見ていた跡部は、自分が抱いた感想に内心、ため息を吐いて頭を掻きたい気持ちに駆られる。
 そう、彼は案外、相当、男前だ。

「…どうしたの?」
 
 ぼんやりとしていた跡部の顔を不思議そうに覗いた不二は、ビニール袋を覗き込んでから卵の黄身にまみれたペットボトルを指さして。
「これ、洗ったら大丈夫だよね」
 とどこか外れたコメントをくれる。
「…大丈夫だろ」
 だから、そう相槌を打って跡部は「ほら、行くぞ」とだけ言った。

 他に何が言えるというんだ。

「待ってよ」
 笑って隣に並んだ不二に、一言だけ言う。

「お前さぁ…無茶しすぎなんだよ」

「結果オーライさ」

 ちろりと舌先を出してとぼけたような笑いを見せた不二は、やっぱり男の目から見ても、そこそこ男前だった。




20050319
END


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