『恋』




「…恋ってどんなものかな」
 妙にアンニュイぶった不二の口から飛び出たのは、跡部としては驚きサプライズな彼が一生を生きていくうえでまったくもって無縁にも思える単語だったものだから、手に持っていたトマトと鶏肉のマスタードサンドイッチをぼとりとトレーの上に取り落としても仕方のない話だ。
 恋、と跡部は間違いなく自分の日本語圏である言語中枢がそう聞き取ったのを一瞬だけ否定したい気持ちにかられつつも、トレーの上に落としたサンドイッチを三秒ルールで持ち直して苦労しながら素っ気ない態度を見せることに成功した。
「さあ、人によるんじゃねェの」
 平然をつとめてサンドイッチを齧る。
 けれど咄嗟に拾ったせいでトレーの上に乗っていた紙ナプキンも一緒に持っていたのに気付かずに、跡部はかじりついたサンドイッチと紙のコラボレーションという一味斬新な食感を体験しながら、実際のところは紙を食べるという事実を凌駕して隣でコーヒーを飲みながらアンニュイぶっている不二の猛威に内心冷や汗をかいていた。
(…恋って、そんな馬鹿な…あいつの口からそんな単語が出てくるわけがねぇってか、あいつのボキャブラリーにそんな単語は入ってないはずだ。あれか、『鯉ってどんなものかな』か、鯉ってどんな味なんだろう、ってことか。そうか、鯉の刺身は新鮮なのはすげェ美味いぜ。そうそう。今度食わしてやるから…)
「跡部、恋したことある?」
(…食わしてやるって言ってんだろ!!)
 中身がはみ出るくらいサンドイッチを握り締めた跡部心境を、今この場で察してくれる人間はどこにもいないらしい。
 夕暮れ時のスターバックスの店内で跡部は一身に孤独を感じながら、不思議そうに横から顔を覗き込んでくる不二のその、微かに首を傾げるという自称可愛いと思い込んでいる動作にさえ恐怖を覚えた。
「…あの、なぁ?…すげェ言いにくいんだけどよ」
「うん?」
「俺、お前の何?」
「…それは、」
「それは?」
「すごく難しい質問だね」
 うーん、と思案顔で唸った不二を尻目に、跡部はごん、とテーブルに頭をぶつける。もちろんその心の内を知る術もない不二は、普段ならあまりしない表情、つまるところ眉間に皺を寄せて「それってさぁ」と呟くように言いながら、皿の上のスコーンをつまんだ。
「友達じゃないし、ましてや親友でもないわけだし…」
(…論外かよ!)
「前に付き合ってた女の子とも違うし、セフレって言うと…またそれだけの話でもないわけだし、付き合ってないから恋人でもないし、ライバルってわけでもないし…それは手塚だし、何だろう?」
 眉間の皺を消し去って、きょとんとした顔が跡部の視界に否応なしに入ってくる。
 まるでこの疑問を生まれて初めて、今この場所で知ったという顔。
 こうなった不二には他意はないし、こういう人を傷つけるどころかナイフでえぐるような発言は天然さゆえのものなのでどうしようもない。ということを跡部は知っていたし、無理やりと言って良いほどに知らされている。
 そうして、跡部があきらめ頬杖をついて「さあ、なんだろうな」と半ば不貞腐れたように言ったところで、不意に世界が開けた。
 世界というのはそういうもので、視界に入らない場所もまた世界の一部であることを、跡部と不二は忘れがちである。



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