下痢




「…右のぽっけ〜、」

 不二が振り返ってそう言ったのを、跡部は上手く理解できなかった。
 彼が呼吸をするかのように漏らす言葉の屑は、どことなく曖昧で輪郭を求めにくく、なおかつ自己完結的だ。彼の言葉は彼のためにささやかれ、彼によって理解されて、彼のせいで消えていく。
 そういう種類の言葉を呟くのが、不二は得意だった。
 だから跡部は、もしかすればそれは独り言だったのかもしれないという不二の言葉にいちいち疑問符を投げかける。そうするのが、仕事のようなものだからだ。
「はぁ?」
 公園のテニスコート。
 ナイター設備のあるコートで、夕暮れ時に軽く打ち合ってそろそろ帰ろうかとラケットを片付けた折だった。
 まだ日が沈むと寒い風が、汗で湿ったシャツを冷やしていく。
「帰りに薬局寄って帰ろう」
「何で」
 要領を得ない不二の言葉に、跡部は呆れ顔を見せてため息を吐いた。汗が冷えた体が軽く身震いをしたものだから、ベンチに放ってあったパーカーに袖を通して跡部は「寒い」と独り言を呟く。
「今日エッチするんだろ?」
「…?」
「僕今ゲリだから、薬買って帰らないと愉快なことになるよ」
「…いや、じゃあ普通にヤるなよ…普通に」
 げんなりして言った跡部の横を不二は荷物を持って軽やかに通り過ぎていく。
 その上機嫌な横顔を見たところで、彼が何を考えているのか良くわからないし分かったところで跡部には何の特もないのだろうけれど、少なくとも危険回避を無駄に試みることはできるだろうと思ったところでどうにもならないのだ。
「うんこびちびち〜」
 ふんふん鼻歌交じりにそんな汚言に働く不二はまったくもって理解不能。
 彼は引退して体を動かす機会も減ったこのごろ、ほどよくテニスで汗を流せてご機嫌なのか何なのか、すぐそばの自販機でアクエリアスを買ってくるとペットボトルの蓋を開けて「エッチようね」と言ってくる始末だった。
「いや、だから下痢なやらめとけよ」
「けちんぼ」
「…そういう問題じゃねェだろーがよ」
「ていうかさ、昨日跡部が調子乗って中で出したからいけなかったんだよ。下痢ぴー」
「…それは…悪ぅございました」
 反論できないところを突かれて大人しく謝罪した跡部。
 不二はそんなことまったく気にしないような素っ気なさで「そういえばさ」と呟いた。
「初めの頃、試しで僕が突っ込んだときに、キツすぎて中出しして大変だったよね」
 爆弾発言に対して、コメントも何も見当たらない跡部は黙り込んだままテニスバッグを肩から提げてただ「帰るぞ」とだけ言う。のを、もちろん不二は引き下がるわけもなく、その跡部が着ていた黒いトレーニングウェアの裾を引っ張って後ろをついてくると「涙出るくらい痛かったんだもんね?」とにやにや嫌な笑いを浮かべた。
「でも僕もキツくて抜く余裕もなかったんだから、アイコか」
「…お前、いい加減に昔の話ひっぱり出すのやめろって言ってんだろーがよ!」
 黙りこんで歩いていた跡部は、おもむろに振り返って吠えた。
 不二がウェアをつかんでいた手を乱暴に振り払って、肩からテニスバッグをずり落としながら頭を抱えるその様はものすごく哀れだったものだから、不二は少し言いすぎただろうかと仏心を出した。けれど、出すのが遅いのはいつものことで、跡部は「あー」だの「うー」だの唸りながら情けなくうな垂れたのを止める術はないのだ。
「ま、僕が後ろでイケる子でよかっただろ?」
 ぽん、と肩を叩いてやる不二は、きっとそれがフォローにも何もなっていないことを知らない。跡部はにこ、と邪気なく笑った不二を恨めしそうに見つめて「お前、今日は大人しく薬飲んで寝ろ」とだけ言うと、ずり落としたバッグを拾い上げて肩に掛けなおした。
「いいじゃん、ストッパ飲むんだから大丈夫だよ」
「…大丈夫じゃねぇよ、万が一ってのがあるだろーが万が一」
「じゃあ下痢ってもいいようにお風呂場でやろうよ」
「馬鹿じゃねェの?!冗談じゃねえよ…っ」
 ばこん、と叩かれた後頭部を恨めしそうに擦りながら、不二は跡部を睨み上げたのだけれど、不意に何か思い当たるような顔をして口早に「ちょっと待ってて」とだけ言うとテニスバッグを跡部に押し付けて踵を返した。
「何」
「トイレ行って来る」

「…、」
 
 もう何も言う気にもなれずに、跡部はただ頭痛を覚えたこめかみを押さえて肩を落とした。





END
20050331


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