餌
「…痛、」
思わず小声で口走った不二を、英二は不思議そうに顔を上げた。
「口、噛んだ?」
不二がそういうことをするのは珍しいものだから、ついまじまじとその眉をしかめた顔を凝視してしまう。と、彼は不満そうに「噛んでないよ」と言って、サンドイッチの残りを口に放り込んだ。
部活の昼休憩。
不二と英二は狭い部室でわざわざ食べたくもない、と手近な教室でのどかな昼食をとっていた。日曜日のせいで他の生徒は人っ子一人いない。
「…口、切ったところが裂けただけ」
不二が言って自分の唇の端を指差した。
たしかに口を思い切り開くと、ふさがりかけていたんだろう傷口がパクリと開く位置。
「うっわ、痛そ。何でそんなとこ切ったんだよ」
「乾燥してて」
「リップクリームとか塗る習慣つけたほうがいいぜ?」
「うーん、前は塗ってたんだけど、アレって逆に唇荒れちゃうんだよね。僕の場合」
困ったように笑って、不二は紙パックのリプトンのミルクティをこくりと飲んだ。
(…別に、乾燥してたわけじゃないんだよな)
また、ふさがりかけた唇の傷に指先で触れた不二は、ぼんやりしてしまう。そもそもこの傷は乾燥して荒れて切れたわけでも食事中に噛んだわけでも、というか噛める位置ではないし、他にどうしたわけでも何でもない。
跡部が噛んだ跡だ。
日が暮れそうな住宅街を歩いて、家の近所の公園にたどり着く。
部活が終わって携帯を見たら、跡部からここでまっているという趣旨のメールが届いていた。彼は最近どこか突発的で衝動的だ。どうしてそうなのかということを、不二は理解できていないけれど、ただ理性を超えた衝動というものは、案外心地がいいものだとどこか外れた意見だけはきちんと持ち合わせていた。
「…ごめん、待った?」
何をするでもなく、公園の入り口にある低い石垣に座っていた跡部に声を掛けると、彼はゆっくりとした動作で顔を上げて、視線を不二に合わせた。
「いや、こっちが急に呼んだんだから別にいい」
「そう」
テニスバッグを立て掛けて、不二は跡部のとなりに断ることなく腰を下ろす。
「朝から部活だったのか?」
「うん、君は?」
「午前中で解散」
「…そう」
「腹減ってねぇの?」
「うん、けっこう空いてる」
頷くと、跡部がいつもするみたいに不二の頭をくしゃりと手のひらで撫でて、苦笑いみたいなよくわからない笑い方をする。そうして傍らにおいてあったコンビニの袋からカロリーメイトの箱を出した。
パッケージを開いて、封を切って、跡部はそれを指先で一口サイズに折ったと思ったら、その動作を眺めていた不二にそれを差し出す。
だから不二は何を言うでもなく、差し出されたそれを、自分の手で受け取ることなく、そのままぱくりと口に入れると指先のカスが残らないように、きちんと跡部の指を舌先で舐め取った。
「…チーズ味だね」
サクサク、という歯ごたえを感じながら不二は笑った。
「僕がカロリーメイトん中でいちばん好きな味だ」
その言葉に、跡部は頷くわけでもなくただ笑っていた。
不二はといえば、差し出されたカロリーメイトに、餌という言葉を連想する。
そう、餌だ。どういう根拠で、どういう経緯でそう思ったのかは自分でもよくわからなく、ただ跡部がそうやってまた差し出してきた一口分のそれを、指先に唇を付けて食べた。
「…餌やってるみてぇ」
おもむろに呟いた跡部。
だから可笑しそうに笑い返した不二。
どうしてそうやって細かく割ってカロリーメイトを食べさせるかという疑問を、不二は抱かない。単純明快だった。
跡部が自分でつけてしまった傷を、不二が口を開いてまた切れてしまわないように。
そういうことだ。
なら初めから傷つけるなという見解を跡部はもちろん、不二だって持ち合わせてはいないのだから、その点について言えば二人とも揃って一般的な見解はできないしする気もない。ただ、お互いわかっていればいい。狂っていると、他人に言われても。
「…口、痛いか?」
「ううん。細かくしてくれるから食べやすい」
へへ、と笑った不二は、また跡部の指からカロリーメイトを食べた。
ザクザクという食感が好きだった。だから厚焼きのクッキーなんかも、不二は好んで食べる。跡部はそれを知っているし、彼が前に『チーズ味のがいちばん好きなんだ』と言ったのも間違いなく覚えていたから、コンビニで迷うことなく手に取った。
「…君がくれる餌だけで、生きていけたらいいのに」
ぼやくように不二が呟くと、そのままおもむろに口を大きく開いた。口の端の傷口が、またぱっくりと開いた。
あくびをするかのようなその動作に、跡部が可笑しそうに笑う。不二も笑おうとしたのだけれど、生憎また開いた傷口が痛くてしかめっ面のような、よくわからない曖昧な笑いになってしまう。
「何やってんだよ」
また一口サイズにカロリーメイトを折りながら、跡部はぼやいた。
「だって、傷、ふさがりそうだったから」
「…ほら」
平然と言った不二に、やっぱり跡部も平然とカロリーメイトを差し出す。
痛みに顔をしかめながら極力口を開かないように跡部の指を咥えた不二は、美味しそうにそれを咀嚼した。それを眺めながら、跡部も残っていたもう一本を自分の口に放り込む。
「今日泊まってく?」
最後の一口を食べながら、不二は跡部に問いかけると案の定彼が二つ返事で頷いた。
「泊まってく」
「君の餌は、カロリーメイトじゃ足りないもんな」
はは、と珍しく軽快に笑った不二は、立ち上がって制服のズボンを軽く手で払った。
END
20050307
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