*023:パステルエナメル





「跡部ー、サボらへんのォ?」
 ある種の驚きさえ浮かべた忍足の顔が自分をのぞきこんでいて、だから跡部は憮然として「サボんね」と短く答える。その答えがまた彼には驚きだったようで「屋上、雨降るからあかんで」と隣に突っ立っていたジローに言い聞かせてみたりなんていうふざけたマネまでしてくれる始末だったのだが、幸いジローは寝ぼけ眼で忍足の話なんか聞いてはいなかった。

「俺らもう自習みたいなもんやん」

 六時限目の選択教科、美術のクラスは、幸か不幸か忍足と跡部は同じクラス分けで一年間を過ごしてきた。この担当教師がそうとう大雑把な性格でなければ進学先が決まった生徒はもとよりまだ受験勉強に勤しむ生徒、ようするに全体的にだったが、それらの生徒たちが自習という名の元にサボりを決行することはなかっただろう。
 そもそも、この時間を有意義に使うように、と一応課題は出すものの暗黙のサボりを推奨しているのは、美術教師本人だ。
 教室にさえいなくても咎められることはなかった。
「サボらんで何する気ィ?」

「絵ェ描く」
 アクリルの具を棚から引っ張り出してきて、跡部はそう答えた。
 思わず黙り込んだのは忍足。
「…」

「…別に、何となくだよ」
「何や、今更真面目に授業受ける気とちゃうやろ?」
「当たり前だろ…何となく描きたいだけだっつってんだろ。ほっとけ」

 嘆息して手を振った跡部は、画材を机の上に広げると大分前に描いたまま手付かずで放置していたカンバスを、美術室の奥、保管棚から引っ張り出す。大きくもないけれど小さくもないサイズのカンバスだった。机に立てかけると跡部の腰ほどもあったから、実際は大きくもない、ということはないのだろう。確かに、見る人が見たら大きいかもしれない。ただ、少し離れた場所で油絵を描いている生徒のカンバスに比べると小さく見えてしまうだけだ。
 アクリルの、抽象画だと思われる絵。上手いのか下手なのかもハッキリしないほど抽象的すぎる絵。

 その画面を見届けて、かどうかは分からなかったが、忍足はジローを連れて教室を出て行ってしまう。

 美術室に残ったのは跡部以外には今は引退した元美術部員だったり、本当に趣味で絵を描きたいんだろう生徒だったり、群れることなくぽつんぽつんと浮き島のように教室内に点在している数名だけだ。
 会話もないし、ただ水彩画を描いているらしい筆を洗う水音だけがぽっかりと広い教室の中に響いた。

 跡部は箱からいつも使う決まった色を取り出して、パレットに搾る。
 
 その絵の具を何気なく眺めて、ふと、気になった。
 色の名前。
 ベージュだと思っていたのだけれど多分違うのだ。そういう、単純な色じゃない。象牙の色にも似た、微妙な色。
 
 絵の具のチューブの裏書に視線を落とす。
 その名前は英字で綴られていた。『Pastel enamel』と。

 パステルエナメル。

 跡部は声に出さずに唇さえも動かしたか動かさないかくらいの程度で呟いた。心の中で呟いてみた。何がパステルでどうエナメルなのかイマイチ分からなかったけれどそれがこの色の名前らしい。

 この色だ。
 この色。
 いつも、ふとした瞬間に思う。
 ああ、この色だ。と。

 使い古して汚くなった絵筆にその絵の具を付けて、カンバスに落とす。
 擦り付けるように厚塗りをしていきながら、無意識に使っていない方の左手の平を握り締めていることに、しばらくしてから気付いた。
 暑いわけでもないのに微かに掻いた汗。
 ひたすらに絵の具を重ねて、重ねて重ねて何がしたいのか自分でも分からなくなった頃。

「…大丈夫?」


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